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裏SENTENラボ

ゲーム、マンガ、および、ニュース関のtwitterで流した情報をまとめて記事にしています。twitterが面倒な方は、こちらからどうぞ。 桜戯 @sakuragi_007

カテゴリー「私信日記」の記事一覧

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不明瞭で多義的な言葉 「萌え」と「キモい」の共通点

「不明瞭で多義的な言葉 「萌え」と「キモい」の共通点」




中杜カズサさんの「「キモイ」という言葉が生まれた現代に思うこと」という記事を読んでふと思いついたことがある。
それが、「『キモい』て言葉が、これって『萌え』という言葉とよく似てるんじゃないかな?」、てこと。


たとえば


「昔って、『キモい』に該当する言葉ってなかったよな」

て、ところ。
wikiによると「萌え」の成立したと考えられている時期が1980年代後半から1990年代初頭頃。
メディアにオタク文化として取り上げられたのが2000年以降。
さらに、2005年に流行語対象を獲得し、知名度はかなり広がったと思われる。
「キモい」に関しては明確な成立時期はないが、1990年代から使用される頻度が増えてきているという。でもって、「キモい」をリアルタイムで使用している年代が中高生辺りらしく、広がり始めたのは1990年代頃と見て間違いないだろう。
認知度が上昇した時期に多少ずれがあるとはいえ、比較的どちらも最近誕生し、広がった言葉といえる。



次がこれ


この「キモい」という言葉と同じ意味を表現するものがそれ以前からあったかと考えると、どうも思いつかないのですよね。


これは、どっちも意味の定義が広すぎることが原因なんじゃないかと思われる。
複数の要素を同時に内包しすぎて、特定の言葉ひとつで表現できなくなっているじゃないかな?

「萌え」の場合、ネットはもちろん、テレビや現実でも頻繁に使われながら、いまだにはっきりと意味合いが定義されていない言葉だ。
大体、「萌え」の場合、個々人が好きなジャンル、キャラの語尾につけるような言葉なので、非常に主観的な影響を受けるに違いない。
だから、「萌え」の範疇に入る領域も、意味合いも差異が大きくなる。
たとえば、私の場合、よく使われる「~萌え」ができそうな言葉を上げるなら「幼女、ドロワーズ、制服、ミニスカート、百合、馬鹿っこ、おっとり、お嬢様 etc」とか、軽くあげただけでかなりの数になる。
さらに、「萌え」が示す意味を考えると「可愛い、好き、大好き、えろい、綺麗、美しい」と、いろいろあるだろう(さらに、言葉でいえないような感覚があって、そのためにあえて使うという場合もありそうだけど)
これに「萌え」を使用する人間の数を考え合わせれば、付属可能言語の種類と意味の組み合わせは、数え切れないものになるはずだ。
だからこそ、意味合いが不安定不明瞭なので私はあえて使わないようにしてるんだけど。

これを「キモい」で考えてみると、とりあえず「悪い意味合いである」てのはあるだろう。
けどそれだけじゃなく、これもwikiになるけど


今では若干軽いニュアンスや人間離れした技能を見たときの褒め言葉としても使われる。「ちょっと変わった物、人、あるいは様子」を目にすると、「何あれ? キモいね」と、とりあえず「キモい」と言う感覚に近いと思われる。冗談として「キモい」と使う事もできる。


というもの。
「キモい」も「萌え」と同じように、指し示す範疇が主観的で、明確なっていない。
周りで使う人間がいないので「キモい」に関しては、その意味合いをこれ以上考えることはできないが、なかなか奥が深いものなのかもしれない。



以上のことをまとめて考えると、意味の不明瞭性は、最近使われだしたことで意味が確立されるには時間が短いし、その上、主観的な部分に頼った使い方がされている言葉でもある。
主観的な認識で使用されている言葉というものはなかなか手強く、万人が共通して納得できる意味を設定できない。
この点で、「芸術や美術の範疇は?」と「キモいや萌えの範疇、意味は?」とは、同じ系統の問いかけだといえる。
そもそも、美的感覚なんて、もろに「キモい、キモくない」「萌える、萌えない」という話だよね。


逆に「キモい」と「萌え」が共通しない部分といえば、互いに「いい意味、悪い意味」で使われているところとか、「頻繁に使う年代、人の数」だね。
ただ、前者に関しては必ずしもこの図式が成立するとは言えないんだけど。




こっからはタイトルとは関係ないけど、なんにしても「キモい」も「萌え」も、どっちも私は使うべきじゃないと思う。
中杜カズサさんが言う「優しさの欠如、人を簡単に傷つける言葉だから」というのもある。
けど、もっと単純に「それ以外に言葉はないの?」と私は感じる。
「キモい」も「萌え」も、私にしてみるとすっごい「大味な表現」だと思うんだよ。
いろいろな要素を詰め合わせすぎてて、いろんな意味を考えることができて、だからこそ、何を言っているのかわからない。
使った側からは「考えろよ」とか言われそうだけど、だったら「はっきり説明しろよ」と、私は思う。
「『萌え、萌え』言ってんじゃねェ、『キモい、キモい』言ってんじゃねェ。便利な一言で済ますな。もっと、はっきり、明確に意味の分かる言葉で説明しろ」てね。
まァそれも、「『萌え』としか言いようがないんだよ!」と言い返しされると、こっちは反論のしようがないんだけど。
(その「言いようのない部分」を言葉にしようと努力するのが楽しいと、個人的には思うんだけどなァ)

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あけおめ ことよろ

あけましておめでとうございます。
前年はようこそ、お越しいただきありがとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。

ええ、まあ、もう二日目の前ですけど、そこは気にしない。

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私の対極主義

岡本太郎について調べるため関連書籍を読んでいたのだが、そこから知った岡本太郎の経歴を年代順に思い浮かべるうちに、刺激されたのか不意に小学生の頃のことを思い出した。
美術の授業中に「絵を描く」という何の変哲も無い話なのだが、そのとき、私は一度だけ絵の描き直しをしたことがある。
「鏡」が題材だったことは、描いた絵の内容から覚えている。

絵の内容は、左右を鏡合わせにし「明暗」分けた構造だった。
片方が現実、もう片方が鏡の世界、とうい感じだったと思う。
とにかく、混沌として、暗く、グロテスクだった。
はっきりと内容を覚えていないが、全体が陰鬱な雰囲気だったことと、実像と鏡に映されてできた薄く笑む、二つの若い青年の姿があったと思う。
目を大量に描いたりとか、そんなものまでしていたかもしれない。
確証は無いが、していた気がする。
記憶の印象だけで、そこまで感じるほどの強烈な作品だ。

ところが私は、その絵のほとんどを描き終え、授業時間も(全授業時間から見て)消耗してから、納得できない気がした。
違和感、なのかどうか、そのときの感覚は覚えてない。
ただ「この絵は違う」、そんな風に感じたんだと思う。
そこで私は完成間近(完成していたかもしれない)のその絵を破棄し、新しく絵を描き始めた。
授業時間だけでは足りないので、休み時間も没頭し完成させたことを覚えている。
そのときの記憶が鮮明に思い出せるほどだ。

その内容は一枚目とは、まったく逆の世界になった。
鏡映しになる物体は上下構造になった。
鮮明な記憶は無いが、下手ながら「虹色の翼」を目指した記憶がある。

この絵を描いた当時は、描き直したことだけで終わっていた。
(絵が、特に翼がへたくそでへこんだけど)
でも、今思うと、一枚目は「闇」であり、二枚目は「光」という対象構造になっているのだ。

そのことを改めて思い出しながら、今の私自身の嗜好を比べると、驚くほど似通っていることに気づいた。
ヘルシング、DIO、東京赤ずきん、職業殺し屋、ベルセルク。
作品でなければ、拷問や、サディストな嗜好。
強烈な死に、闇に、暴力に、陰鬱な雰囲気に支配された作品を愛している。
その一方で、ジョジョや、ガオガイガー、ガッシュのような、勧善懲悪的なものと正義を愛している。
あるいは、マリみてや、カードキャプターさくらのような、純粋無垢なものを愛している。
(CCさくらは、実態を理解すると純粋無垢と言い難くなるけど)

私の中には小学生の頃から、正と悪がすでに同伴していた。
この程度の嗜好の持ち主、探せばいくらでも存在するとは思う。
それは事実だ。
しかし、小学生の頃に抱いた思いを、十年以上かけ、膨大な自作の文章と、絵と、読破した本と、小説と、専門書と、マンガと、アニメと、ゲームと、その全てを総合した上で、「岡本太郎」という人物の生き様に触れ、蘇った。
そこに私は強烈な「運命性」を感じる。
おそらく、どれが欠けても今の私はいないに違いない。
特に悪ならヘルシング、正義ならガオガイガー。
どちらも真逆の方向に熱く、強烈な作品だ。
そして、オタク趣味に走らなければ、目にすることも無かったかもしれない。
(どっちもネットで知った作品だったし)
あるいはニコニコを知らなければ、ガオガイガーに関しては動画を見ること自体無かっただろう。
さらに、最近のことだが、私が卒論の題材にしている「明日の神話」
これは人目に触れることができる状態にまで復旧されたのが2006年。
(明日の神話は30年近く放置され、ぼろぼろになっていた)
私が大学に入学したのが2005年で、卒論の題材を選び、実物を目にしたのが今年の2007年。
まさに一年の差だ。
もし仮に、私が浪人せずに大学に入学していたら、明日の神話を見ることは無かったかもしれない。
2006年の夏に東京で見れたが、場所が違うため、わざわざ見に行くことは無かったかもしれないからだ。
(今年、明日の神話を見に行ったのは、コミケついでの予定だったから。つまり、明日の神話は目的ではなく、おまけのつもりだった)

そして何より、小学生の頃抱いていた「正と悪」の「同居」は、まさに岡本太郎の「対極主義」だ。
十年以上かけ、岡本太郎の対極主義を介し、原点へと回帰した。
そう考えると、震えがおこるほど沸き立ってくる。
これはただの偶然なのだろうか?
それとも、運命なのだろうか?

私が勧善懲悪に惹かれるのも、一つの世界に「正義と悪」が同居しているからかもしれない。
正義と悪の対立が、強烈な火花を散らすその様に沸き立つ思いがするのだから。



いやしかし、岡本太郎の対極主義的に考えたら、勧善懲悪はアウトか。
対極主義である以上、「正義と悪は普遍的に存在し戦い続ける」という構造である必要があるし ・・・ ・・・ 。
んんむー。

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