裏SENTENラボ
ゲーム、マンガ、および、ニュース関のtwitterで流した情報をまとめて記事にしています。twitterが面倒な方は、こちらからどうぞ。 桜戯 @sakuragi_007
私の対極主義
岡本太郎について調べるため関連書籍を読んでいたのだが、そこから知った岡本太郎の経歴を年代順に思い浮かべるうちに、刺激されたのか不意に小学生の頃のことを思い出した。
美術の授業中に「絵を描く」という何の変哲も無い話なのだが、そのとき、私は一度だけ絵の描き直しをしたことがある。
「鏡」が題材だったことは、描いた絵の内容から覚えている。
絵の内容は、左右を鏡合わせにし「明暗」分けた構造だった。
片方が現実、もう片方が鏡の世界、とうい感じだったと思う。
とにかく、混沌として、暗く、グロテスクだった。
はっきりと内容を覚えていないが、全体が陰鬱な雰囲気だったことと、実像と鏡に映されてできた薄く笑む、二つの若い青年の姿があったと思う。
目を大量に描いたりとか、そんなものまでしていたかもしれない。
確証は無いが、していた気がする。
記憶の印象だけで、そこまで感じるほどの強烈な作品だ。
ところが私は、その絵のほとんどを描き終え、授業時間も(全授業時間から見て)消耗してから、納得できない気がした。
違和感、なのかどうか、そのときの感覚は覚えてない。
ただ「この絵は違う」、そんな風に感じたんだと思う。
そこで私は完成間近(完成していたかもしれない)のその絵を破棄し、新しく絵を描き始めた。
授業時間だけでは足りないので、休み時間も没頭し完成させたことを覚えている。
そのときの記憶が鮮明に思い出せるほどだ。
その内容は一枚目とは、まったく逆の世界になった。
鏡映しになる物体は上下構造になった。
鮮明な記憶は無いが、下手ながら「虹色の翼」を目指した記憶がある。
この絵を描いた当時は、描き直したことだけで終わっていた。
(絵が、特に翼がへたくそでへこんだけど)
でも、今思うと、一枚目は「闇」であり、二枚目は「光」という対象構造になっているのだ。
そのことを改めて思い出しながら、今の私自身の嗜好を比べると、驚くほど似通っていることに気づいた。
ヘルシング、DIO、東京赤ずきん、職業殺し屋、ベルセルク。
作品でなければ、拷問や、サディストな嗜好。
強烈な死に、闇に、暴力に、陰鬱な雰囲気に支配された作品を愛している。
その一方で、ジョジョや、ガオガイガー、ガッシュのような、勧善懲悪的なものと正義を愛している。
あるいは、マリみてや、カードキャプターさくらのような、純粋無垢なものを愛している。
(CCさくらは、実態を理解すると純粋無垢と言い難くなるけど)
私の中には小学生の頃から、正と悪がすでに同伴していた。
この程度の嗜好の持ち主、探せばいくらでも存在するとは思う。
それは事実だ。
しかし、小学生の頃に抱いた思いを、十年以上かけ、膨大な自作の文章と、絵と、読破した本と、小説と、専門書と、マンガと、アニメと、ゲームと、その全てを総合した上で、「岡本太郎」という人物の生き様に触れ、蘇った。
そこに私は強烈な「運命性」を感じる。
おそらく、どれが欠けても今の私はいないに違いない。
特に悪ならヘルシング、正義ならガオガイガー。
どちらも真逆の方向に熱く、強烈な作品だ。
そして、オタク趣味に走らなければ、目にすることも無かったかもしれない。
(どっちもネットで知った作品だったし)
あるいはニコニコを知らなければ、ガオガイガーに関しては動画を見ること自体無かっただろう。
さらに、最近のことだが、私が卒論の題材にしている「明日の神話」
これは人目に触れることができる状態にまで復旧されたのが2006年。
(明日の神話は30年近く放置され、ぼろぼろになっていた)
私が大学に入学したのが2005年で、卒論の題材を選び、実物を目にしたのが今年の2007年。
まさに一年の差だ。
もし仮に、私が浪人せずに大学に入学していたら、明日の神話を見ることは無かったかもしれない。
2006年の夏に東京で見れたが、場所が違うため、わざわざ見に行くことは無かったかもしれないからだ。
(今年、明日の神話を見に行ったのは、コミケついでの予定だったから。つまり、明日の神話は目的ではなく、おまけのつもりだった)
そして何より、小学生の頃抱いていた「正と悪」の「同居」は、まさに岡本太郎の「対極主義」だ。
十年以上かけ、岡本太郎の対極主義を介し、原点へと回帰した。
そう考えると、震えがおこるほど沸き立ってくる。
これはただの偶然なのだろうか?
それとも、運命なのだろうか?
私が勧善懲悪に惹かれるのも、一つの世界に「正義と悪」が同居しているからかもしれない。
正義と悪の対立が、強烈な火花を散らすその様に沸き立つ思いがするのだから。
いやしかし、岡本太郎の対極主義的に考えたら、勧善懲悪はアウトか。
対極主義である以上、「正義と悪は普遍的に存在し戦い続ける」という構造である必要があるし ・・・ ・・・ 。
んんむー。
美術の授業中に「絵を描く」という何の変哲も無い話なのだが、そのとき、私は一度だけ絵の描き直しをしたことがある。
「鏡」が題材だったことは、描いた絵の内容から覚えている。
絵の内容は、左右を鏡合わせにし「明暗」分けた構造だった。
片方が現実、もう片方が鏡の世界、とうい感じだったと思う。
とにかく、混沌として、暗く、グロテスクだった。
はっきりと内容を覚えていないが、全体が陰鬱な雰囲気だったことと、実像と鏡に映されてできた薄く笑む、二つの若い青年の姿があったと思う。
目を大量に描いたりとか、そんなものまでしていたかもしれない。
確証は無いが、していた気がする。
記憶の印象だけで、そこまで感じるほどの強烈な作品だ。
ところが私は、その絵のほとんどを描き終え、授業時間も(全授業時間から見て)消耗してから、納得できない気がした。
違和感、なのかどうか、そのときの感覚は覚えてない。
ただ「この絵は違う」、そんな風に感じたんだと思う。
そこで私は完成間近(完成していたかもしれない)のその絵を破棄し、新しく絵を描き始めた。
授業時間だけでは足りないので、休み時間も没頭し完成させたことを覚えている。
そのときの記憶が鮮明に思い出せるほどだ。
その内容は一枚目とは、まったく逆の世界になった。
鏡映しになる物体は上下構造になった。
鮮明な記憶は無いが、下手ながら「虹色の翼」を目指した記憶がある。
この絵を描いた当時は、描き直したことだけで終わっていた。
(絵が、特に翼がへたくそでへこんだけど)
でも、今思うと、一枚目は「闇」であり、二枚目は「光」という対象構造になっているのだ。
そのことを改めて思い出しながら、今の私自身の嗜好を比べると、驚くほど似通っていることに気づいた。
ヘルシング、DIO、東京赤ずきん、職業殺し屋、ベルセルク。
作品でなければ、拷問や、サディストな嗜好。
強烈な死に、闇に、暴力に、陰鬱な雰囲気に支配された作品を愛している。
その一方で、ジョジョや、ガオガイガー、ガッシュのような、勧善懲悪的なものと正義を愛している。
あるいは、マリみてや、カードキャプターさくらのような、純粋無垢なものを愛している。
(CCさくらは、実態を理解すると純粋無垢と言い難くなるけど)
私の中には小学生の頃から、正と悪がすでに同伴していた。
この程度の嗜好の持ち主、探せばいくらでも存在するとは思う。
それは事実だ。
しかし、小学生の頃に抱いた思いを、十年以上かけ、膨大な自作の文章と、絵と、読破した本と、小説と、専門書と、マンガと、アニメと、ゲームと、その全てを総合した上で、「岡本太郎」という人物の生き様に触れ、蘇った。
そこに私は強烈な「運命性」を感じる。
おそらく、どれが欠けても今の私はいないに違いない。
特に悪ならヘルシング、正義ならガオガイガー。
どちらも真逆の方向に熱く、強烈な作品だ。
そして、オタク趣味に走らなければ、目にすることも無かったかもしれない。
(どっちもネットで知った作品だったし)
あるいはニコニコを知らなければ、ガオガイガーに関しては動画を見ること自体無かっただろう。
さらに、最近のことだが、私が卒論の題材にしている「明日の神話」
これは人目に触れることができる状態にまで復旧されたのが2006年。
(明日の神話は30年近く放置され、ぼろぼろになっていた)
私が大学に入学したのが2005年で、卒論の題材を選び、実物を目にしたのが今年の2007年。
まさに一年の差だ。
もし仮に、私が浪人せずに大学に入学していたら、明日の神話を見ることは無かったかもしれない。
2006年の夏に東京で見れたが、場所が違うため、わざわざ見に行くことは無かったかもしれないからだ。
(今年、明日の神話を見に行ったのは、コミケついでの予定だったから。つまり、明日の神話は目的ではなく、おまけのつもりだった)
そして何より、小学生の頃抱いていた「正と悪」の「同居」は、まさに岡本太郎の「対極主義」だ。
十年以上かけ、岡本太郎の対極主義を介し、原点へと回帰した。
そう考えると、震えがおこるほど沸き立ってくる。
これはただの偶然なのだろうか?
それとも、運命なのだろうか?
私が勧善懲悪に惹かれるのも、一つの世界に「正義と悪」が同居しているからかもしれない。
正義と悪の対立が、強烈な火花を散らすその様に沸き立つ思いがするのだから。
いやしかし、岡本太郎の対極主義的に考えたら、勧善懲悪はアウトか。
対極主義である以上、「正義と悪は普遍的に存在し戦い続ける」という構造である必要があるし ・・・ ・・・ 。
んんむー。
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この記事へのコメント
ほほーなかなか興味深い
俺はどちらかといえば闇の存在・・
自分をアストラル体と思いこみ肉体の苦痛をまったく無視した時代も有った・・そこにはイジメや差別等の事も有ったせいだろう・・
まぁスレイヤーズに見ほれたのが最初だがね^^;
今でもたまに人格変化みたいなものを起こす。記憶が無くなっているのだ数時間の記憶でも何かやったような後が残っている・・
血を見るのに違和感無いし生き物が死んでいく姿もべつに可哀想とか思わない精神になったな・・
とある言葉がここにある
「無限をたゆたいし者、生を拒み死を求める、汝光と闇の狭間に存在せし者、・・・・・」
まぁ「・・・・」は書いたら負けと思っているのでご勘弁を><ノ
さて今日はコノヘンデ^^ノシ
>>ほほーなかなか興味深い
知らない間に自然消滅した、というかなんというか。
小学生のとき
いじめられる→担任が真剣に一年を通じて話し合いの場を作る→いじめがなくなる→いじめる側に回る(このあたりの時期は不明瞭だけど)→学年変わって担任が変わると、私をいじめた生徒と仲良くなり担任をいじめる
あっれぇ?
(*・∀・)ノシ